1982年4月 東京都立町田養護学校 知的障害・肢体不自由 中学部
1988年4月 東京都立光明養護学校 肢体不自由 小学部(訪問教育を2年間担当)
1992年4月 愛知県立岡崎養護学校 肢体不自由 小学部
1994年4月 豊田市立豊田養護学校 肢体不自由 小学部
2002年4月 愛知県立三好養護学校 知的障害 小学部(知的障害児施設の施設内教育に12年間 定年退職)
2017年4月 瀬戸市立瀬戸特別支援学校 肢体不自由 小学部(再任用…2021年3月まで)
(学校名はその当時の名称です。)
町田養護学校には開校10周年の年に初任者として赴任しました。わらべうた、情動交流、しいたけ作業学習、遊びから労働へ、精肢併置校、障害の重い子どもたちなど、私の教員生活はこんな言葉で始まりました。2月の実践報告会には、全国から2日間で延べ800人以上の方々が参観に来られました。京都の与謝の海養護学校と並んで全国的にも注目された学校でした。喜田正美先生とは1年間だけ一緒でしたが、学部が違っていたのでほとんどお話はできませんでした。渋江孝夫(丘修三)先生とも1年間でしたが同じ中学部で一緒に仕事をさせていただきました。私はいなか育ちですが、耕運機を動かしたのも、しいたけの原木を見たのも町田が初めてでした。紙すきを始めた頃、高等部が使っていた畑の一部だと知らずに勝手に楮の挿し木をしたこともありました。多くの先輩諸先生方、怒りもせずよく我慢して付き合ってくださいました。ありがとうございました。
光明養護学校といえば日本で最初の肢体不自由児のための学校で、その昔は体の不自由な人のための学習院と言われた歴史ある学校です。太平洋戦争以前からの学校ですので、長野の疎開先に持っていったというやかんがありました。学校の図書室で卒業生の書かれた本の中に「ハイヒールをはいた先生たちはどこへ行ってしまったんだろう」の文を見つけた時、養護学校にもそんな時代があったんだと思ったのがもう30年も前のことです。 この学校で出会ったこと、学んだことといえば何といっても酒井先生の「摂食指導」でした。「摂食指導」の大切さが東京都の肢体不自由養護学校にじわじわと広がり始めたころで、夏季休業中に研修会が開かれると全国から先生たちが集まってこられました。私が受け持った子供たちの中には取り立てて食事で気を使わなければならない子どもがいなかったこともあり、酒井先生から個別の事例で直接お話をいただいたり、指導を受けたりということはありませんでしたが、光明での「摂食指導」との出会いは、その後の私の教員生活に大きな影響をもたらしています。
岡崎養護学校に赴任して4月の終わりころ、中学部の先生から「10年遅れたところにきて、どうですか」と聞かれたことがありました。新しいところにきて慣れるのに精いっぱいで、そんな風に思う余裕はありませんでした。「10年遅れてる???」返答に困りましたが・・・でも言われてみれば確かに・・。スクールバスは観光バスで、リフトはついていませんでした。給食は普通食のみ、骨のついた魚も出てきました。摂食指導に関する本を買って、食機能の発達や食形態の必要性など勉強しましたし、周りの人と一緒になって給食を変える実践を始めることになりました。廊下の端ですり鉢でご飯をつぶしたり、パンを牛乳で緩めたり、トロミアップを加えて再調理食作りに励んだものでした。2年目には光明養護学校の酒井先生を講師にお呼びして研修会が計画され、「摂食指導」が全校の教員の問題意識に高まったものと思います。
豊田養護学校は愛知県で初の市立の肢体不自由養護学校です。日進市、瀬戸市などから通ってくる子ども達もいました。開校と同時に赴任しました。
給食開始の2日前だったか、教職員に対して試食会が開かれました。「とろみの材料をジャガイモでなくトウモロコシだと食感が違うように思います。」と伝えたところ、給食開始の時にはコーンスターチに代わっていました。いろいろと工程を考え準備をしてきたものを、1日で変えるのは大変なことだったと思います。栄養士さんはじめ調理員さん関係者の皆さん、ありがとうございました。
入学当時、鼻腔カテーテルでミルクしか摂取できなかった児童が、スプーンを使えるようになり軟らかい固形物を食べられるようになりました。このことを全国肢体不自由教育研究協議会、中部地区肢体不自由教育研究協議会で発表しました。これがきっかけとなり富山県立高志養護学校(丸山校長先生)、三重県立渡会養護学校から講師の依頼を受けました。「大きく開いた口に、食べ物や水分をたくさん流し込んではいませんか?」程度の食べさせ方の基本や発達段階に応じた食形態の必要性くらいの話しかできなかったのですが、他校に呼ばれて話をするなんていうことは初めての経験でした。
三好養護学校は知的障害の子供たちを対象とした学校です。15年間お世話になりました。施設内教育部門を定年まで12年間担当しました。ここで出会った子供たちに教えてもらったことが本当に大切なものでした。その中でもN君が教えてくれたことが大きいです。「愛着」「安全基地」が人間の発達の基本になること。その後の成長発達の過程で「マルトリートメント」による影響を受け続けること。特別支援学校もそうですが、学校、保育園、幼稚園、施設、学童クラブ等の「先生」と呼ばれる人たちの、子どもたちへの関わり方は「マルトリートメント」に相当する現象が多分にあること。退職を数年後にひかえてこんな大切なことにやっと気づかされました。反省することばかりで本当に情けなくなりました。
瀬戸特別支援学校は、通称「さくらんぼ学園」です。県立小牧養護学校に1時間以上かけて通わせていた保護者や,市立豊田養護学校に通わせていた保護者が「さくらんぼの会」を起ち上げ「瀬戸市にも養護学校を!」と声を上げ続けた成果として開校した学校です。小学部は瀬戸市立萩山小学校の1階部分、中学部は瀬戸市立光陵中学校の敷地内にあり校舎はつながっています。数年後にはさらなる変革が計画されているようです。元気に駆け回る子供たちの声でにぎやかに思われるのですが、小学部はこじんまりとしていて静かでした。「なにができてどうなるか」「作ったら遊べる」「自分でできること・友達に頼むこと」「失敗してもおもしろい」など、とにかく「楽しく面白い授業」を目指しました。遊びの中で身に付けた力が、将来働く力につながるということから、キャリア教育も意識しました。町田で聞いた「遊びから労働へ」というのは、こういうことなんだろうなと勝手に解釈しています。
※ 「精肢併置校」について
町田養護学校は全国初の精肢併置校です。当時他に1校あったか・・・当時は「知的障害」の表現はなく「精神薄弱」(精薄)と 表現されていました。
特別支援学校では、教科書が使える授業は少ないです。教科用図書(附則9条図書)がありますが、実際使えないことがほとんどです。児童の実態を把握して、何を教えるために、どんな教材を使えばいいのか。教材会社が用意してくれるのは、一般的なマットやブロック、平均台や跳び箱のようなもの。モンテッソーリ教材などもありますが高価で手が出せないのが実情です。ほとんど多くの場合、教科書に相当するもの、教材、教具、その他もろもろの多くの物を先生たちが考えて作らなくてはいけないという現実があります。
IT関連の仕事で誰に聞けば分かるのかすら分からない仕事がどんどん増える先生たち。
作成してもファイルに閉じたら日の目を見ないような書類の作成がどんどん増える先生たち。
教材研究、教材制作の時間はどんどん無くなる先生たち。
そんな先生たちの力になれればと考え、サイトを立ち上げることにしました。 お力になれれば幸いです。
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